翻訳についての誤解を解く
翻訳家の山岡洋一氏が発行するニューズレター「翻訳通信」がウェブで公開されていることを最近発見した(こちら)。
山岡氏は、経済学の開祖アダム・スミスの『国富論』の新訳を2007年に出した。著名な経済学者による訳本が多数あるのになぜいまさら『国富論』の新訳を手がけたのか、その理由が語られている。
一言で言うと、岩波文庫や中公文庫で出ている経済学者の翻訳が日本語になっていないからだ。英単語と日本語の単語を一対一でむりやり結びつけて訳すという、学校英語の英文和訳のやり方そのままでは、表面的には英語が日本語に訳されていても、日本語だけ読んでも意味がわからない。
山岡氏は、プロの翻訳家であるが、『国富論』の新訳は出版社からの発注なしに作業に取り掛かったという。なぜなら、山岡氏が新訳を思い立った十数年前は、社会科学の古典をその分野の大学教授でもない翻訳家が訳すという例が出版界になかったからだ。しかし、学者には任せておけないというやむにやまれぬ熱意が山岡氏を突き動かし、収入にはならないかもしれない作業を始めたのだ。
せっかく多数の人に読み継がれる価値のある古典が、下手な翻訳のせいで読まれないままになっているのはあまりにももったいなく、翻訳家として放置できないという強い使命感が感じられる。
学校教師の便宜のために、使い物にならない“英文和訳”を仕込まれるうちに、それが絶対的に正しいという観念が蔓延してしまったことへの強い憤りが伝わってくる。確かに、学校の試験のためには、oftenは「しばしば」、principleは「原理」と、英単語と和訳とが一対一に対応していると便利だろう。しかし、ある言語で伝えたいメッセージを他の言語に移す翻訳という作業は、そのような機械的なものではない。“英文和訳”を刷り込まれるために、大多数の日本人は「翻訳」ができなくなってしまっているのだ。
学校英語の問題を始め、出版不況の問題など、翻訳家としての問題意識がひしひしと伝わってくるニューズレターだ。なかなか日の当たることの少ない翻訳家だが、プロとしての誇りが感じられる。






