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2008年3月

2008年3月31日 (月)

ビジネス書を読まない経営者

先日、新聞のコラムで大企業の経営者が古典はたくさん読むがビジネス書は読まないことを誇らしげに語っていた。大企業の経営者ともなれば、大局を読んで大きな舵を取るのが仕事だから、古典からは学ぶことがあるが小手先のテクニックは無用だと言いたかったのだろう。

この手の功成り名遂げた人たちが公の場で語ることを真に受けるのはナイーヴに過ぎる。きっとこの経営者も仕事の上で必要な情報はビジネス書だろうがなんだろうが手段を選ばずに得ているに違いない。もっとも大企業はスタッフが充実しているので、部下が要領よく資料をまとめて上げてくるだろうから、自分で情報を取りに行かなくても済むのかもしれないが。

カネボウの再建にあたり社長に起用された知識賢治氏は、膨大な量のビジネス書を読破して勉強していたことが、40代にして社長に大抜擢される力を養ったという。

経営者・管理職に読書は必要だ。「ビジネス書」とひと括りにすると、実際は役に立たない浅薄なハウツー本も含まれてしまうが、経営のための専門書を読んで学ぶことは今日の経営管理者には必要なことだ。松下幸之助のように自分の経験と思考だけで最先端の経営理論を構築できてしまう稀代の天才は別として、大多数の経営管理者は読書などの方法によって知識を他人から効率よく学ばなくては、変化する環境の中で適切な意思決定ができるとは思えない。

お神輿に乗っかっていれば格好がついた時代は終わり、今日の経営管理者は先の見えない中でリスクを取って指導力を発揮することが期待されている。このような力を持っているのは専門家としての経営者であり、ただお神輿に乗っかっている人ではない。経営の専門家である以上、専門的知識がなくてはならない。たくさんの研究者やジャーナリストが経営に関するいろいろな問題について調査研究した結果を著書として世に問うている。せっかくの知恵を吸収しないのはもったいないし、その努力を怠っていては競争相手に出し抜かれてしまう。無知な状態でリスクを取るのはただの放漫経営だ。

経営者は、度量が大きくて洞察力の鋭い人であるだけではなく、知識という武器も身につける必要がある。そのためには、読書は有力な手段の一つであり、ビジネス書(ただし浅薄なハウツー本を除く)もレパートリーに欠かせない。

2008年3月30日 (日)

舞踏への勧誘~クナッパーツブッシュ名演集

Imgasp 山崎浩太郎の本でヒストリカル演奏に興味が出て買ったCDの1枚だ。文字情報で、「変わった演奏」だということはわかっていたが、どう変わっているのか興味津々で聴き始めた。

1曲目の「大学祝典序曲」冒頭1分くらいで「変わって」いることはよくわかった。日ごろ耳にしているウィーンフィルの精緻で洗練された響きとは全然違う。アマチュアオーケストラのように荒削りな合奏に聞こえる。

でも、聴き進めていくとだんだんノってきた。楽譜は見ていないが、他の演奏との比較で判断してかなり勝手なイントネーションを随所につけて演奏しているようだが、それがノリノリなのだ。まさにアマチュアのように、弾いている方も演奏を楽しんでいる感じがする。

自動的に物事が流れていくのではなく、生身の人間が汗水たらして動かしている。力をためたり、解放したりの波が大きく、「流麗」という言葉とは対極にあるような、無骨とも言える音楽だ。しかし、不自然とは違う。生理的な快感を呼び起こす働きがある。

機械化・自動化が尊ばれた20世紀後半の時代に、このような生身の人間の存在を感じさせる演奏が時代遅れだとされたのも無理もない。

技術の進歩はとどまることはなく、21世紀に入ってますますバーチャルな世界は拡大を続けているが、身体の動かし方を忘れたことへの反省もまた出てきている。そこまで話を広げる必要もないが、このような理屈抜きで聴いてノれる演奏スタイルの復権を強く期待する。

2008年3月27日 (木)

“呼吸感”のある演奏

私がレコードを買い始めた頃は、既に録音はステレオが当たり前になっていて、音楽再生装置も「ステレオ」と呼ぶのが普通になっていた(その昔は電気式蓄音機、略して「電蓄」と言った)。モノラル録音のレコードやモノラル時代に活躍した演奏家は、古い時代の遺物という感じがして、長いこと真剣に聴こうとはしてこなかった。

しかし、山崎浩太郎という音楽評論家(本人は「演奏史譚家」と称したいらしいが)の本『クラシックヒストリカル108』767 を読んで、古い演奏に興味が出てきた。カラヤン以降の第二次大戦後の多くの演奏家たちは音楽を正確に演奏することに重きを置く一方で、生身の人間らしい伸縮自在な“呼吸感”を忘れているというのだ。 

20代の頃までは未知の名曲に出会うことだけでクラシック音楽を楽しんでいたが、歳を経て自分の好みに合う曲をあらかた知ってしまうと、わくわくする感じがどんどんなくなっていった。新たな世代の演奏家が出てくれば同じ曲の新しい演奏が次々に出てくるが、それらをいちいちチェックしてみたくなるほどの限界効用は感じられなかった。 

こうした一種の倦怠感があったところに、カラヤンより前の時代は、演奏家たちがもっと自由闊達に生々しい演奏を繰り広げていたという話に出会ったのだった。お行儀が良くて、格調が高くて、教養に満ちたクラシック音楽。そんな窮屈なイメージに違和感を感じていたこともあり、古い演奏はもしかして面白いのではないかと期待が膨らんできたのである。

2008年3月25日 (火)

独裁と武力はオリンピックと相性が悪い

第一次世界大戦で中止された1916年のベルリン、第二次世界大戦で中止された1940年東京・札幌、1944年ロンドン・コルティナダンペッツォ、ソ連のアフガン侵攻で西側諸国がボイコットした1980年モスクワと、歴史的に見て国際的な紛争があるとオリンピックの円満な開催は望めないようだ。

チベット独立運動に対する中国政府の武力弾圧は、一応中国の国内問題という形式になっているので、オリンピックの歴史に照らせば開催そのものが危ぶまれる理由にはならないかもしれない。

しかし、歴史・文化・体制を異にする諸国の人々が集まってスポーツで競うというイベントの趣旨が本質的に平和と密接な関係があることに鑑みれば、他民族を武力で支配下に置き、言論・集会・結社の自由を弾圧している政府にオリンピックを主催する資格があるのか疑問を禁じえない。まさにこの点で旧ソ連が主催したモスクワオリンピックは自由諸国からボイコットされたのだ。

オリンピックを人質にして独立運動のアピールの手段として利用するのはあざとい面があるかもしれないが、逆に、オリンピックの開催国の地位を得さえすれば国際社会で一等国と扱われることを期待するのも極めて不純な思惑といわざるを得ない。

国際社会の常識を早く身につけて、本物の堂々とした尊敬される大国になってほしいものだ。

2008年3月24日 (月)

「願いをかける」「引き寄せ」の意味

望んだ結果を“引き寄せる”方法を書いた本が最近何冊か出ているようだ。ぱらぱらと見ただけなので詳しい内容は知らないが、オカルト的な色彩が強い印象を受けた。はっきり言ってあまり賢い人が買う本ではないと思われる。 

ところで、わが国では神社でお賽銭をあげて願い事がかなうように祈願するというのは普通に行われていることである。会社でも商売繁盛を神社仏閣で祈願するところは多い。特に強い願い事があるときは、お百度を踏むというやり方も確立されている。いまさら欧米から“引き寄せ”のノウハウ(?)を輸入しなくても、伝統的な方法がちゃんとあるのである。 

では、なぜ願い事をすると叶うのだろうか。もちろん叶わない場合も多々あるわけだが、これほど普及しているからには、永年の淘汰に耐えて一定の効果が評価されているに違いない。 

その理由は、願い事をすることによって、「自分が何を望んでいるのか」を強く具体的に意識することにある。 

企業の経営でも、到達目標を明確にすることが戦略経営の第一歩である。 

何を目指しているのか、どういう状態になりたいのか、それが自分にもはっきりしていなければ、成り行きに身を任せ、行き当たりばったりになってしまう。それで目標に到達できる可能性は低い。 

目標を具体的に意識していれば、そこに到達するためには何をするべきかが見えてくる。目標に向けて正しい努力をすることができる。その結果として、願いが叶う確率が上がるわけである。これこそが願いをかけることの意味、効果なのだ。 

決してオカルト的・超自然的な力が働くわけではない。自分の力を引き出すための方法なのである。結果を引き寄せるのは自分自身の努力なのだ。

2008年3月22日 (土)

ウォークマンの音質は捨てたものじゃない

1年半ほど前からメモリータイプのウォークマンNW-S703Fを愛用している。ノイズキャンセリング機能が付いているので、通勤電車の中でも快適に音楽が楽しめる。 

手のひらに収まってしまうような小さなものだし、所詮イヤホンで聴くのだからと、音質に過大な期待は抱いていなかった。その先入観に邪魔されて、1年位、このウォークマンの音質が捨てたものじゃないことに気がつかなかった。不覚である。

先月プリメインアンプを買い換えたのだが、買い替え前のアンプの音質が好きになれなかったのが理由だ。新しい優秀録音のCDは問題ないのだが、1970年代以前のレンジの狭い録音を再生すると、弦楽器がギスギスして音楽が楽しめなかった。

一方、同じCDをウォークマンに入れて聴いていると、音色がきれいに聞こえ、演奏者の意図もよくわかることにあるとき気がついた。このブログで書いたチェリビダッケのブルックナー交響曲第9番の感想もそうして聴いていたときのものだ。

ステレオの音像の定位もいい。据え置き型のステレオの場合、部屋の状況やスピーカーと聞き手の位置関係などで音像がぶれるが、密閉型イヤホンで聴くウォークマンならぴたりと決まって動かない。

まるでちょうちん記事みたいになってしまったが、期待していなかったものが予想外に良かったという話である。Nws703f

2008年3月20日 (木)

上司の欠点はよく目立つ

部下というものは、現実には無理だとわかっていても、どこか心の底で上司に完璧さを期待しているものだ。こうあってほしい理想的な状態に引き比べて上司を見るのでどうしても欠点が目立ってしまう。 

一方、上司は高いところから見るので部下の長所・短所がよく見えるはずだが、実際には上の立場になると長所・短所を客観的に評価するというより、好き嫌いが先に立つことが多いようだ。 

これまでのサラリーマン生活で何人もの上司に仕えた中で感じた欠点をいくつか挙げてみよう(順不同)。 

・重箱の隅ばかりつついて、根本の方向性について自分の考えがない

 資料の「てにをは」を直すことには一所懸命だが、肝心の仕事の方向性については自分なりの筋道だった意見がない。 

・上が思いつきで言ったことを金科玉条のごとく墨守して仕事の目的を見失っている

 地位が上になればなるほど現場の生の状況から遊離しているとともに、成功体験の蓄積から来る自信があるために、ときにまったく頓珍漢な思いつきを口走ったりすることがある。これに対して実態を説明して代替案を提案するのは中間管理職の仕事であるはずだが、それをせずにとにかく「上の人が言ったことだから」と下に降ろしてくる。 

・根拠なく判断をしてしまう

 社会人としての常識で判断して概ね結果が正しいことは多いが、内容によっては根拠をきちんと把握してから判断しないとまずい場合もある。例えば、法令遵守(コンプライアンス)に関わってくる問題の場合、関係法令の規定がどうなっているのかをまず知らなくては正しい判断はできない。まず部下に関係法令の調査を指示すべきだが、それをしないで感覚的に即断即決してしまう。 

・個人としての好き嫌いで判断してしまう

 商品開発や広告宣伝といった創造性や趣味が関わってくる仕事でよく見られる。本来、判断の拠り所は「ターゲットとする顧客に支持されるかどうか」であるはずだが、それを忘れて「自分が好きかどうか」で判断してしまう。たまたまターゲット層と上司の属性とが一致しているとか、自分でも深くターゲット層の研究をしていて熟知しているとかならまだいいが、このいずれでもないのに、一個人の好き嫌いで判断してしまっては、結果は一か八かの博打になってしまう。 

ちなみに、当然、私の部下たちは私の欠点がよく見えているはずだ。

2008年3月14日 (金)

「フライト・トゥ・デンマーク」 デューク・ジョーダン

K2085724387ジョーダンのピアノはタッチが硬くてお世辞にも美しい音色とはいえないと思う。ピアノを習っている子供のような音色に聞こえる。 

それに、メロディーが甘い。少し哀愁を帯びたセンチメンタルなメロディーがこれでもかと続く。終始そうなので、ほとんど意外性のない予定調和の世界だ。 

でも、このアルバムを何年ぶりかに聴いて深く心に沁みた。 

最近、アンプとスピーカーを買い換えたので、古いCDを聴き直している。その過程で手に取った1枚がこのアルバムだった。以前のステレオよりもより生々しさが表現されるようになり、オンマイクで収録されていることが多いジャズのCDを聴き直すのが特に面白い。 

ライナーノートによれば、チャーリー・パーカーに見出されたジョーダンは1950年代までは順調な活躍を続けていたという。しかし、1960年代にはバップは古臭いスタイルとして省みられなくなった。仕事がなくなったジョーダンはタクシーの運転手をして食いつないだという。

センチメンタルなメロディーは、セピア色の白黒写真のように古い時代を感じさせるものがある。でも、テクニックや音楽語法の制約を越えて、ジョーダンには確かに表現したいものがあると感じられる。甘さの中にも見せ掛けではない本物の“苦さ”が少し混じっていて、それが伝わってくる。ただのBGMにするのはもったいない。

2008年3月12日 (水)

株式公開の目的が「内部管理の充実」は本末転倒

株式公開(IPO)の目的として、次の4つが挙げられることがある。

1.資金調達能力の増大と財務体質の充実

2.企業信用力の増大と知名度の向上

3.優秀な人材の確保とモラールの高揚

4.経営管理の組織化と内部管理体制の充実

この1~3はある程度うなずけるところだが、4は「はてな?」である。IPOをするとなぜ内部管理体制が充実するのか。

それは、株式市場の上場基準を満たすために外から求められるからである。証券取引所としては、内部管理体制が整っていない会社の株式を上場しては、投資家の保護に著しく欠けることになるため、このような条件をつけているのだ。

外から求められて嫌々(というと言いすぎかもしれないが、少なくとも受動的に)する内部管理体制の充実を「目的」というのはおかしいのではないか。内部管理体制を充実させることを本当に望んでいるのなら、IPOをするかどうかに関わりなく自発的に1部上場企業並みの体制を整えて、「うちは非上場ですが内部管理体制にかけては上場企業に負けませんよ!」と言えばいいのではないか。

ところで、非上場でも上記1~4をすべて実現している会社もある。サントリーは有名なところだし、上場前の出光も評価は高かった。

本当のIPOの目的は、オーナー創業者にとっての創業者利潤の具体化(金銭化)と考えるのが素直なのではないか。

2008年3月 4日 (火)

日本郵政・西川社長は怒る相手を間違えている

ゆうちょ銀行が全国の郵便局に資料を送る際にヤマト運輸のメール便を使用したことに対して、日本郵政の西川善文社長が怒りのメッセージを出したという(asahi.comより)。グループ会社を束ねる立場からは一見やむをえないようにも思える。 

経緯はこうだ。24,000部のパンフレットを送るのにあたり、ゆうちょ銀行は事前に日本郵便に話を持ち込んだが、繁雑だと断られた。やむなく一般競争入札にかけたところヤマト運輸が落札した。

しかし、ゆうちょ銀行の立場からすれば、グループ会社を優先して日本郵便に高値で発注していては、自社の競争力が落ちてしまう。

西川社長が怒るべき相手は、公明正大な手続きを経て最も有利な条件を提示した相手に発注したゆうちょ銀行ではなく、グループ会社の立場にあぐらをかいて競争に負けた日本郵便ではないのか。

2008年3月 1日 (土)

毒入りギョーザ事件に対する中国の対応はあまりに拙劣

中国製冷凍ギョーザから殺虫剤が検出された事件で、中国当局が一方的に日本側を批判したうえ、中国での混入の可能性を否定した対応は、拙劣で中国の利益にもならない。 

この問題に早く幕を引きたいのなら、原因を早く究明して公表することしかない。原因を明らかにしないまま責任を押し付けようとしている限り、日本の(そしておそらく世界中の)消費者は中国製品に対する信頼を回復することはできない。 

言論統制が当たり前で当局に逆らうことができない国ならいざ知らず、世界のほとんどの国では「当局が言っているから」というだけの理由で問題が消えることなどありはしない。むしろ不自然な、納得できない形で当局が無理に問題を押さえ込もうとしていることが見え見えだと、いつまでもくすぶりつづけるものだ。中国当局にはこの世界の常識が欠けている。 

それと、もうひとつの中国当局の誤りは、この問題を自分たちで勝手に国家レベルの問題にしてしまったことだ。昨年日本では食品偽装問題が多発したが、それらはすべて個々の企業の法令遵守・企業倫理の問題と捉えられている。偽装問題が多発したからといって、それが日本国家の威信の問題だと考えている人はまずいない。 

殺虫剤が入っていたのは天洋食品という一企業の一部の製品である。中国当局は、あくまでも一企業で起きた事件として真相を究明し、責任者/犯人を処罰すればよいのであって、仮に混入が中国国内で起きていたとしても中国国家の威信とは関係ない。なぜ国家の威信がかかっているかのような対応をするのだろうか? まるで犯人を中国国家が匿っているようだ。 

不自然な中国当局の対応を無理にでも説明しようとすれば、毒物混入に中国の当局者が関わっていたことが判明したため隠し通すしかなくなった、というようなストーリーを想像するしかない。いくらなんでもまさかね。 

いずれにせよ、中国が中国製品に対する信頼を回復して輸出を増やそうとするなら、真相究明しかない。臭いものに蓋をすればいつまでも問題はくすぶりつづけ、中国は信頼されないままだ。

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