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2009年3月

2009年3月30日 (月)

「あらたにす」は何のためにあるのか

Photo 朝日・読売・日経三紙の共同ウェブサイト「あらたにす」は、当初から何が目的なのかよくわからないサイトではあった。一応、三紙を読み比べることができ、それを通じて新聞に興味を持ってもらうことを目的にしているらしいのだが、それにしては道具立てが大げさだ。googleニュースでほぼ同じ目的は達成できる。

 

それに輪をかけて不可解なのが、コラム「新聞案内人 だ。

 

各界の有識者が新聞や報道のあるべき方向性について、示唆に富んだ提案をしている。例えば最近では、歌田明弘が「マスコミは検察に説明を求め続けよ」、水木楊が「署名記事を増やせ」、栗田亘が「もっと記者会見の詳細を書け」という趣旨の提言をしている。これらはそれぞれもっともな内容であり、新聞各社が実行すれば新聞はもっと面白くなるだろう。

 

ところが、わざわざ金をかけて「あらたにす」を作り、その場でこのような価値ある提言がされているにも関わらず、肝心の新聞は毎年恒例の小手先のレイアウト変更程度しかしておらず、真剣に新聞の魅力を向上させようとしているとは到底思えない。

 

いまや新聞は沈み行く泥舟である。足元が水浸しになっているのに、百年来の「上から目線」の癖が抜けず、お山の対象気分のまま内輪の論理で舵を取っているつもりだとしたら笑止だ。

 

せっかくの提言をまずは実行してみたらどうか。百に一つでも当たれば購読部数が伸びるかもしれないではないか。

2009年3月26日 (木)

「できそこないの男たち」福岡伸一

03046516 「生物と無生物のあいだ」 (講談社現代新書)がヒットした福岡伸一の新書の最新刊である(といっても去年の10月だが)

 

れっきとした科学者でここまでストーリーテリングの上手な日本人著者を私は知らない。「生物と無生物のあいだ」では違和感なくその才能を楽しんだ。

 

本書も最初から最後まで一気に読ませる力はあるものの、若干、話しの流れに不自然な箇所があったように感じた。

 

動物が生殖するうえでオスは絶対に必要なものではないことを説明するために、通常はメスだけで繁殖するアリマキ(アブラムシ)を証拠として挙げている。アリマキの話は本書の根幹であるテーマを証明するために鍵になる例である。

 

しかし、アリマキから人間まで一足飛びに話がつながっているのにはやや勇み足の印象を持った。生物学の専門的知識を持っていれば勇み足ではないことがわかるのかもしれないが、アリマキと人間とが無理なくつながることをもう少し説明してほしかった。

 

さらに、男性のがんの罹患率が高いことを男性の弱さの実例として挙げている。これもまた、なぜ男性のがんの罹患率が高いのを説明するメカニズムが仮説にとどまっているために、やはり結論を急いでいる印象を与える。

 

本書のタイトルでもある「できそこないの男たち」というコンセプトは、個人的な直感とも合致しており、異論はない。それだけに中心的なテーマについてはロジックに隙があるかのような印象を与えないように丁寧に論じて欲しかった。

2009年3月25日 (水)

コルテオ Corteo - Cirque du Soleil

Corteo コルテオでシルク・ドゥ・ソレイユを初めて観た。

 

シルク・ドゥ・ソレイユは、曲芸を見せるだけものからよりアート志向の舞台を作り上げている団体という程度の予備知識で原宿に向かった。

 

コルテオでは、主人公が死の床で見る幻想というテーマで舞台が演出されている。綱渡りやジャグリング、空中ブランコなど伝統的なサーカスの芸も、ただそれをやってみせるのではなく、必ず舞台装置、衣装、美術、音楽による幻想的な演出で彩られている。曲芸以外の部分にも並々ならぬ費用、手間ひま、そして才能をつぎ込んでいることが誰の目にも明らかだ。

 

ただし、私の座席は舞台から遠く、演者の表情や微妙なあるいはダイナミックな動きの迫力が伝わって来にくかったためか、せっかくの凝った演出も曲芸と曲芸との間を間延びさせた印象を持ってしまった。音楽も生演奏だったらしいのだが、演奏者の姿も見えず、音質のよろしくないPAの音だけでは生演奏かどうか判然としなかった。

 

また、冒頭、「死の床」という、エンターテインメントとしては挑戦的ともいえるテーマが示されたので、全体を一貫したストーリーと意外性のある結末を期待した。しかし、幻想的なシーンを提示するためのきっかけ作りにとどまり、あえて縁起でもないオープニングを持ってきた必然性は感じられなかった。

 

少なくともA席の末席では6000円分の価値があったか疑問である。せっかく時間と金をかけて観るのならより真価のわかる席で見たほうがよい。

 

批判的なコメントが多くなってしまったが、普通のサーカスとして捉えれば、極めて難しいことをよく鍛錬された演者たちが熱演していたことは間違いない。サーカスをアートにしようという志への期待が高い故の批判的コメントである。

2009年3月22日 (日)

クラウドコンピューティングがなぜ日本から出なかったのか

近頃、注目されているIT系のキーワードに「クラウドコンピューティング」がある。直訳すると「雲電子計算」となる。

 

従来、コンピュータを使うときは、データもアプリケーションソフトもそれを扱うコンピュータも、ユーザが自分のものを手許(自社内)に置いていた。これに対し、クラウドコンピューティングでは、データもアプリケーションソフトも手許には置かず、“雲”の向こうにあるサービス提供会社にあるものを使うのだ。手許のパソコンはデータをやり取りするためにだけ使う。“雲”とは、通信ネットワークのことだ。ネットワークを図に描く際、雲形の絵で表すことから来たものだ。

 

クラウドコンピューティングを使うと何が良いかというと、次のようなことが挙げられる。

・データやアプリケーションソフトを端末側に置かないので、例えば出先にある端末を使う場合でも、同じように仕事ができる(端末に縛られない)

・アプリケーションを自社開発するのに比べて開発コストが少なくて済む

・リスク管理されたデータセンターにシステムが置いてあるので、セキュリティが高い

 

他方、システムの心臓部はすべて通信ネットワークの向こう側にあるので、通信ネットワークがダウンするとまったくシステムが使えないことになる。この点では、日本は信頼性の高い光ファイバーの通信ネットワークが世界一安く普及しているので、クラウドコンピューティングを利用する環境では優位にある。

 

ところで、御多分にもれずクラウドコンピューティングもアメリカが発祥の地だ。アマゾンやグーグルがいち早くサービスを開始した。

 

日本はブロードバンドの速さとコストの安さでは世界一であり、クラウドコンピューティングのような高速インターネットが前提となるサービスでは先を行ってもおかしくない環境にある。それなのに、どうしてブロードバンドでは後塵を拝しているはずのアメリカに先を越されるのか。クラウドコンピューティングだけでなく、動画サービスのYouTubeなどもしかりである。

 

新しいことを考えたり試したりする気概が日本には欠けているように思われる。小さな安全にばかり気をかけていて、大きな経済を作り出したり、時代を進める力が足りない。こんなことでは人口減少時代にがひたすら縮小均衡していくしかなくなってしまう。将来に期待の持てない、暗い国になっていくのではないか。

2009年3月21日 (土)

春、深まる

3月も下旬に入り、いろいろな植物の生長が楽しい。

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ラナンキュラスの葉がすくすくと伸びている。

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ムスカリの花が咲き始めた。

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チューリップもすくすくと育っている。

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テッポウユリも負けじと伸びてきた。

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ブルーベリーの花芽がさらに膨らんできた。

2009年3月20日 (金)

「外国語学習の科学」白井恭弘

03035178 外国語(第二言語)の習得に関するこれまでの学問的な知見を一般向けにコンパクトにまとめた概説書である。

 

これを読むと、日本の学校での英語教育が、少なくともコミュニケーションの道具として英語を身に付けさせるかという観点からは、いかに理論的な裏づけを欠いた方法を惰性でやってきたかを痛感させられた。

 

例えば、単語カードというものがある。小さな短冊形の紙片の片面に英単語を1つ、もう片面に対応する和訳を書いて、これを繰り返し見ることで単語を暗記する道具だ。しかし、用例や文脈から切り離された単語を、英語と日本語とがあたかも1対1対応するかのように記憶しても、英語を実際に書いたり話したりするときにはあまり役に立たない。

 

著者も巻末で述べているように、第二言語習得の理論は発展途上にあり、すべてが明らかになっているわけではない。しかし、部分的にではあっても、研究の成果を外国語教育の実践に取り入れることは可能だし、そうするべきだろう。それによって、日本人の英語コンプレックスが多少なりとも緩和され、国際化する社会の中で日本人が諸外国人と交流する上での障壁が低くなることが望ましい。

 

本書は、実践の手引きというよりは理論の概観が中心である。最後の章に「効果的な外国語学習法」がまとめてあるが、これだけでは一般の読者が実践に移すことは限界があるだろう。著者は大学での第二言語習得の入門教科書としての利用を前提としているようだが、新書という一般向けの出版形態であることから、どうしても読者は具体的な学習実践方法を期待してしまう。手軽に買える形で第二言語習得の入門書が出版されたことは大歓迎だが、欲を言えばもう20~30ページ増やしてでも具体例を盛り込んだほうが読者に対して親切だったのではないか。

 

 

「外国語学習の科学」

白井恭弘

岩波新書(新赤版)1150

ISBN978-4-00-431150-8

2009年3月19日 (木)

対面販売で安全性を担保できるなら薬剤師には責任を負わせろ

医薬品のネット販売の禁止という、身も蓋もない既得権益死守の動きが現在進行中であることはにも論じた。

 

ネット販売禁止論者たちは、医薬品の副作用による被害を予防するためには、対面販売が必要であり、対面以外の販売方法は禁止するべきだと主張している。

 

この主張は裏づけのない空理空論であるが、百歩譲って認めたと仮定しよう。すると、 「対面販売だったにもかかわらず副作用の被害が発生した場合」、その販売にあたった薬剤師は何らかの責任を負うことになるははずだ。

 

国民が本来持っている自由に医薬品を購入する権利を制限する以上、一般商品の販売とは違って、医薬品の対面販売を許された事業者・薬剤師には加重された責任が生じるのは当然だ。

 

どういう責任かと考えると、「薬害を防止する」ことが目的での制限なのだから、薬害が発生した場合、業務上の注意責任を果たしていたかが厳しく問われることになるだろう。

 

すなわち、

①その医薬品を購入しようとした消費者の病歴、体質、生活習慣などを十分確認したか、

②その医薬品の使用方法を消費者が十分に理解するまで説明したか

が問われ、万一いずれかでも完全に職責を果たしていなかったとすれば、薬害の発生に対して損害賠償責任を負うことになる。

 

特権には責任が伴うのだ。それでもいいのか? 既得権益にしがみつく業界団体と厚労省の皆さん。

2009年3月18日 (水)

「大人の見識」阿川弘之

02940915 親族が貸してくれたので読んでみた。

 

第二次大戦前後の時代の今日省みられることのない人々やエピソードから次世代に残したい「見識」を語ったもの。

 

良いことも言っているとは思うのだが、口述筆記と思われる作りのため年寄り臭い語り口がそのままになっていて、どうも素直に入っていきにくいし、読後感がいまいち爽やかでない。

 

著者は90歳近い年齢で年寄りなのは事実だから、年寄り臭くてもまったく不思議はないのだが、1冊の本としてこのような作りにしたのは酷だったのではないか。

 

本当に後の世代の人達にメッセージを残したいのであれば、ターゲットになる世代の人達が読みたくなるような作りにしなくては目的を効果的に達成することはできないだろう。

 

同世代近辺の読者を想定し、その読者から共感を得られればよしとする企画ならそれまでのことだが。

 

 

大人の見識

阿川 弘之著

新潮新書 (新潮社)

ISBN 978-4-10-610237-0

2009年3月17日 (火)

新聞社はCO2削減で率先垂範しろ

新聞の論調を見ていると、日本は欧米に負けないようなCO2排出量削減目標を設定しろ、地球温暖化対策で遅れを取るなというような主張が多い。

 

しかし、日本はオイルショック後に既に欧米諸国に比べて大幅な省エネを達成しており、GDP当たりとか、1人当たりの温暖化ガス排出量ではトップの成績を収めているのである。

 

既に成績が1番の生徒がそれ以上成績を伸ばすのは大変だ。劣等生がテストの得点を10点伸ばすのは余地が大きいのに比べて、既に100点を取っている優等生がそれ以上どうやって10点伸ばせというのか。

 

このような経済的・技術的な困難さを考慮せず、定量的な裏づけもなく、大幅なCO2排出量削減目標の設定を唱える大新聞は無責任の極みだ。

 

欧米を越えるようなCO2排出量削減が達成可能だと考えているのなら、新聞社は率先垂範するべきだろう。新聞各社は、自社が新聞の製作や販売のために排出しているCO2量を、例えば30%削減する自主目標を設定・公表してから、国全体の削減目標について言及したらよい。

 

新聞記者は都内を移動するだけでも黒塗りの大型ハイヤーを使っているが、どれほど無駄にCO2を排出しているのか考えたことがあるのか。ああいう一般庶民の感覚から遊離した行動を平気でやっているからこそ、欧米を上回るCO2削減などという実現可能性の乏しいことを主張するのだ。

 

CO2削減のため、取材は徒歩で移動、ハイヤー禁止からまず実行してもらいたい。

2009年3月14日 (土)

エマ・カークビー:ザ・ベリー・ベスト(デッカ盤)

41apescz9el_sl500_aa240_ 英国のソプラノ歌手エマ・カークビーのデッカへの録音から集めたベスト・アルバム。先般ハイペリオン盤の感想を述べてからしばらく経つが、ようやくこちらのアルバムも聴いた。

 

このデッカ盤の方が収録されている作品のレパートリーが広く、モーツァルトなどの親しみやすい曲も入っており、どちらか一方というならこちらがお勧めだ。しなやかにのびのびと透明感のある声が聴ける。

 

なお、このアルバムは既発の「The Pure Voice of Emma Kirkby」と「The Sweet Sound of Emma Kirkby」とを21組にしたものである。重複して買わないようにご注意。

 

 

The Very Best of Emma Kirkby

Emma Kirkby, soprano

Decca 476 2488

2009年3月12日 (木)

ちくま日本文学001「内田百閒」

Uchida_hyakken 「ちくま日本文学」は、一人の作家につき1冊にまとめた意欲的な文庫版の日本文学全集だ。その栄えある第1巻が内田百閒である。高い評価は知りながら、その著書を手に取ったことがなかった作家たちを知るのにちょうど良い。

 

内田百閒の名前も昔から知っていたが、枯れた渋い随筆家であるようなイメージを勝手に抱いていて、著書を手に取ることはなかった。

 

気まぐれで本書を読み始めて驚いた。

 

その小説では、夜なのに空は明るく、人々の話す内容はよく聞き取れず、言いたいことを言おうとすれば声が出ず、知っているように思える人は思い出せず、どこからか水の音が聞こえてくる。事態は自分の望むようには展開せず、かつ、先が読めない。不条理さにおいては、絵画でいえばキリコ、マグリットを連想させ、ナンセンスさにおいては、筒井康隆の先輩格にあたるだろう。

 

多くは見た夢をヒントにしていると思われるが、ただ夢の内容を文章にしただけにはとどまらない意味がある。過剰な自意識とその反作用としての疎外感、大きな体制の中での人間の矮小さの感覚が描かれている。大正から昭和初期に書かれたとは思えない、平成の現代にもそのまま通じる感覚がしっかりと伝わってくる。

 

借金や借り物のエピソードが出てくる随筆などでは、現実の生活の苦労についての愚痴が顔を出してくる。しかし、あくまでもリアリズムではなく、とぼけたユーモアにくるんである。

 

『ノラや』が代表作の一つとされているようなので、できれば本書に収録してほしかった。

 

 

ちくま日本文学001「内田百閒」

ISBN: 9784480425010

2009年3月10日 (火)

二階経産大臣は説明責任を果たせ

住宅用太陽光発電の電力を高値で買い取る制度について、電気料金への転嫁は負担の逆進性があるとして、消費者からの抗議が経産省に相次いでいるそうだ。

 

この固定買取制度は、二階経産大臣が電力会社の経営者を呼びつけて同意を求めたものだった。監督官庁の大臣が直々に申し渡すことに対して、電力会社は否と言えるわけもなかっただろう。

 

しかし、まずは実質的に費用を負担する消費者に対して二階大臣が説明し、国民の支持を取り付けてから、次に電力会社を呼んで制度の実施への協力を求めるのが筋だったろう。負担の当事者ではない電力会社との間でだけ話をつけてもだめだということだ。

 

国民との対話を忌避して、監督権限を振りかざして言うことを聞かせられる相手と話をつけて既成事実化しようとした二階大臣の独断的・密室的な手法が国民から受け入れられなかったのだ。

 

西松建設違法献金疑惑でそれどころではないだろうが、もし二階大臣が本気で固定買取制度を推進したいのなら、今からでも自ら直接国民に対する説明責任を果たす努力をしたらどうか。

2009年3月 7日 (土)

家を建てるときに気をつけたほうがいいこと

House 家を新築してから数年が経つ。普請は3軒目でようやく満足のいく家になるという言い伝えもあるようだが、1軒目だったので、やはり家ができて住み始めてからこうすればよかったと思うことがあった。

 

一つは、洗面所をもう少し広くすればよかった。洗面所は、なんとなく浴室の付属物みたいな感じで、実用性さえ確保すれば良いようなイメージを持っていた。それでハウスメーカーの既製の設計をそのまま採用したのだが、やや狭かった。いろいろな多品種の小物を収納するスペースが必要だし、生活空間としての快適性も重視すべきだと後になって感じたのだ。

 

また、リビング階段にしたのだが、暖房をそれに応じた設計にするべきだった。一般に2階建ての場合、階段は玄関ホールから直結する設計が一般的だ。玄関ホールと1階居室の間はドアで仕切る。こうすることで、暖房の季節に居室の暖気が玄関ホールに抜けるのを防ぐ。階段を玄関ホールではなく、居間(リビングルーム)につなげるいわゆるリビング階段では、居間の暖気が階段を通じて2階に行ってしまって、暖房の効率が悪い。どうすればこの現象を防げるのか正解は知らないが、シーリングファンを付けるとか、床暖房にするとか、何か手を打つべきだった。

 

そして、台所に勝手口を設けたのはよかったのだが、たたきを作らなかったのはいまいちだった。勝手口から外に出るときは必然的に土足になるわけだが、その履物を置く場所がないのだ。仕方がないので、勝手口の前の床にかごを置いてその中にサンダルを入れているが、なんとも間抜けな感じだ。

 

家の設計をする際にもできる限りよく考えたつもりだったが、それでも「もれ」があった。どうすればこのようなもれをなくすことができるだろうか。

 

一つの方法は、現在住んでいる家と新しく建てる家とで変わる部分を一つ一つ比べて、本当にそれでいいのか確認することだ。うちの場合、古い家の洗面所は今より広かったし、勝手口にはたたきがあったのだ。

 

設計士に、通常一般の家と比べて変な設計になっている部分がないか尋ねるのもチェックになるかもしれない。

 

可能なら知人や親戚の家を見せてもらって、満足している部分、不満な部分を教えてもらうのも有益だろう。一人ひとりライフスタイルが違うので、すべてを採用する必要はないが、実体験をふまえた意見は価値がある。

2009年3月 6日 (金)

「クロコダイル・ロック」エルトン・ジョン

Photo 先日、妻とイタリア料理屋でピザを食べていたら、BGMでこの曲が流れてきた。特別懐古趣味の店でもなかったので、とても意外だったが、いまだにこの曲は支持されているのだろうと思って少しうれしかった。

 

実はこのシングル盤をいまだに持っているのだ。当時、小学生高学年か中学に入った頃だったはずだ。思わず身体が動き出してしまうようなノリの良さに迷わず小遣いをはたいて買ったのだった。

 

その後、引越しなどのたびに大半のレコードは売ってしまい、手許に残っているのは数えるほどしかない。もはやレコードプレーヤーを持っていないので、昔なつかしいこのEP盤を再生する手段を持っていないので死蔵になってしまっている。

 

別の音源で久しぶりに聞いてみると、ファンタジア・オルガンの音色の不思議な魅力とともに、やはりリズムのノリが良い。やはり名曲だ。

 

ところでEPB面には「にわとこのワイン(Elderberry Wine)」という曲が入っている。せっかく買ったレコードなので、B面も何度も聞いたのだが、どうしても好きにならなかった。

 

 

“Crocodile Rock”

Single by Elton John

from the album “Don't Shoot Me I'm Only the Piano Player”

B-side "Elderberry Wine"

東芝EMIMCAIFR-10214

2009年3月 5日 (木)

プラチナカード

クレジットカード会社から、プラチナカードへの切り替えを勧めるDMが送られてきた。

 

そのカード会社で20年以上会員になっており、ほぼ毎月利用実績がある。もちろん利用代金が引き落とし不能になったことはない。そういう地道な実績が評価されたのだろうと思うと、少しうれしくはある。

 

しかし、プラチナカードになると年会費が2万円以上にもなる。プラチナカードならではのサービスもいろいろと付加されるのだが、現在のライフスタイルでは高額な会費の元を取れるあてがないので、切り替えはしない。

 

プラチナカード会員のサービスの一つに空港ラウンジが利用できるというのがある。ビジネスクラス以上の旅客は、空港で航空会社が設置したラウンジが利用できる。カード会員特典でラウンジを利用するとしたらエコノミークラスで旅行する場合だけだ。プラチナカードを持つような人がエコノミークラスで旅行するというのはちょっと違和感がある。

 

もちろんプラチナカードを持たない私はいつもエコノミークラスだ。

 

※ネットで検索してみたら、ゴールドやプラチナカードの基準がずいぶんと下がっているようだ。

2009年3月 4日 (水)

太陽光発電の買取は税金で

250pxgiant_photovoltaic_array 経済産業大臣の肝いりで家庭用太陽光発電からの電力を高値で買い取る制度を作る動きが進んでいる。

 

現在太陽光で発電された電力は、電力会社から電気の供給を受けるのと同額の1kWhあたり23円程度で電力会社が買い取っている。

 

この買取価格では太陽光発電設備の設置費用を回収するのに十数年以上かかるので、太陽光発電は経済的な見返りを期待する投資としては見合うものでなかった。いわば環境に良いことをしている精神的な満足感が投資の見返りだった。

 

そこで、買い取り価格を1kWhあたり50円に値上げして、設備の設置費用を回収するのにかかる期間を10年に縮め、太陽光発電の普及を後押ししようというのが新しい制度の目的だ。買取価格値上げの原資は、通常の電気料金を値上げすることでまかなうとされている。

 

広く薄く費用を負担することでCO2排出量の少ない太陽光発電の普及を促進するのは一見良いように思える。実際にドイツではこの方法により急速に普及が進んだ実績もある。

 

しかし、電気料金の値上げであることには変わりないので、電力が必需財であることを考えると、原資の負担方法についてはよく考えるべきだ。

 

100万円単位の太陽光発電設備の設置ができる世帯はどちらかというと裕福な方に属する。一方、どんなに貧乏でもいまどき電気を使わないで生活はできない。その結果、貧乏な世帯から金を取って裕福な世帯に支払うという負担の逆進性が生じる。

 

値上げ額は標準世帯で1か月100円程度とのことなので、目くじらを立てるほどではないかもしれないが、制度に逆進性があることは認識しておく必要がある。それに、もしこの制度がヒットして太陽光発電を導入する世帯が増えればその分負担が急増する恐れもある。

 

逆進性を回避するためには、電気料金の値上げで原資をまかなうのではなく、税金で負担するという手もある。税金はあらかじめ逆進性を考慮して制度設計されている。太陽光発電の普及が国益にかなうと判断するのなら、むしろ税金を投入するのが筋ではないかとも考えられる。

2009年3月 1日 (日)

Too Big To Failを規制せよ

アメリカに端を発した金融危機の再発防止策として、スタンフォード大学のバーク教授は興味深い提案をしている。

 

今回の金融危機の大きな原因は、いくつかの投資銀行が過大なリスクを取っていたにも関わらず投資家/債権者が経営をよくチェックしていなかったことにある。この状態が発生した背景は次のとおりだ。

 

投資銀行が巨大になりすぎるとToo Big To Fail(社会的影響が大きすぎるので破綻させられない)状態になる。仮に破綻しそうになれば公的資金が注入されることが想定されるので、政府の債務保証が暗黙の前提になってしまう。すると債権者はこの投資銀行をチェックすることを怠るようになる。

 

しかも投資銀行は本来よりも安いコストでどんどん資金を調達することができるので、さらに巨大化し、集中化が進んでいく。

 

バーク教授は、こうした問題を防止するためには、Too Big To Failにならないように投資銀行の規模を規制することを提案している。暗黙の政府保証があてにされることがないため、投資家も投資銀行の経営をチェックするし、集中化も防げる。

 

米ビッグスリーを始めとして各国で製造業にも公的資金を投入する動きが出てきている。これもToo Big To Failだからだ。破綻した民間企業に公的資金を投入することは、本来市場から退出すべき非効率な企業を温存し、結果的に経済を弱体化させてしまう懸念が指摘されている。Too Big To Failを出現させないことは、投資銀行に限らず、健全な経済にとって重要なことなのかもしれない。

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