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2009年11月

2009年11月28日 (土)

太陽光発電の固定買取制度は増税である

太陽光発電の固定価格での買取制度が今月から始まったことはにも書いたとおりだ。

 

1127日の「報道ステーション」に出演した菅直人副総理は、「全量買取制度を実施すれば、太陽光発電を導入する人が増えて、予算を増やすことなく景気の刺激になる。」という趣旨の発言をしていた。これは聞き捨てならない。

 

固定買取制度とは何か。太陽光発電で発電した電力を、法令で決められた固定価格(政策的に高値に設定してある)で電力会社に買い取ってもらえる制度だ。高値で買い取ってもらえることが法令で保証されているので、回収リスクを心配しないで太陽光発電設備に投資できる。

 

今月(200911月)から始まった固定価格買取制度で対象になるのは、「余剰電力」だ。太陽光発電を設置している人が自分で消費する電力を超えた、余剰の分だけを高値の固定価格で買い取ってもらえる。これに対し、菅副総理が言っていた全量買取制度とは、自家消費分を含めて太陽光で発電された電力をすべて高値で電力会社に買い取ってもらえるというアイデアだ。現在の制度以上に太陽光発電設置者の収入が増えるので、太陽光の普及が加速する効果が期待されている。

 

余剰か全量かにかかわりなく、買取に必要になるお金は、電気料金に上乗せされる。すべての電気消費者が固定買取にかかる費用を負担する制度なのだ。したがって、来年からそのぶんだけ電気料金が値上がりすることになっている。

 

ここにこの制度の「まやかし」がある。

 

形式的には、電気料金の値上がりということになるが、法令の規定によって強制的に値上がりさせられるのだから、実質的には増税とまったく同じなのである。消費者が知らないうちにガソリン価格に上乗せされた税金を負担させられているガソリンの暫定税率と同じ構造なのだ。

 

固定買取制度では、税金に相当する金の徴収も、買取のため支払う金(補助金に相当する)も、電力会社の計算の中で行われるので、菅副総理が「予算を増やすことなく」と言ったのは形式的には正しい。しかし、法令によって強制的に消費者の負担が増えるのだから、増税となんら変わるところがない。

 

見かけ上政府の予算を増やさずに、実質的な増税をするのは「まやかし」以外の何物でもない。

 

この制度自体は自民党政権時の二階経産大臣が導入したものだ。政権が交代したのだから、このような「まやかし」の制度こそきっぱりとやめるべきところを、さらに買取の範囲を拡大しようなどとは、鳩山政権のでたらめさがここにも露見している。

2009年11月25日 (水)

もうダメでしょ、鳩山総理

Hatoyama 鳩山総理は、総理・議員ともに辞職するべきだ。

 

かねてから疑惑のあった故人献金などの政治資金収支報告書虚偽記載問題に関し、虚偽記載総額が4億円以上に上っていた。資金源は鳩山家の資産管理会社と鳩山総理の実母だという。

 

相も変わらず鳩山総理は、「全く私の知らないところで何が行われていたのか、事実かどうかも含めて大変驚いている」と、他人事のような発言を続けている。

 

仮に知らなかったのが本当だとしても、これまで自民党のカネにまつわる問題を舌鋒鋭く批判していた本人の政治資金源が4億円以上も虚偽記載されていたとなると、監督責任・結果責任を取らなくてはならないのは明白だ。

 

こんな薄汚れた人間が偉そうに日本国民13000万人の代表の座について、いまだに政策を語っているのはまったく許容しがたい。

 

もし鳩山由紀夫が健全な倫理観・責任感を一片でも持ち合わせているというのなら、直ちに総理・議員ともに辞職することだけが、それを証明する手段だ。

 

もう鳩山政権を批判する記事を書くのは嫌になっているのだが、次から次にあまりにもひどいことが起きるので書かずにはいられないのが辛い。

2009年11月24日 (火)

世間知らずの学校教師たち

以前、高校の同窓会で、二十数年ぶりに恩師と再会して話をする機会があった。そこで驚いたのは教師たちが世間知らずなことである。我々より年長の教師たちが、我々同級生の会社員や自営業者などと比べても、話に深みや含蓄がない。いかに学校教師が狭い世界で生きているかを痛感した。

 

最近、モンスターペアレントが学校で問題になっているという。もちろん、自由には責任が、権利には義務が伴うことを理解しないで、一方的な主張をする親たちに問題はあろう。

 

しかし、学校教師たちの世間知らずぶりを考え合わせると、世の中で決して通らない主張をする親に対して、効果的な反論や説得をするスキルを持ち合わせておらず、その結果モンスターペアレントたちを増長させているのではないか。

 

メンタルヘルスを損なって退職のやむなきに追い込まれる教師も少なくないというので、教師の側を責めるのは酷かもしれない。でも、もし教師の側に、一般の職業に就いている人ならば持ち合わせているようなクレーム対応のスキルがあればそのような悲劇も避けられたのではと思ってしまう。

 

高校生くらいになるとファストフードなどでアルバイトをする生徒も多い。そういうところで世間の風に当たった生徒ならば、世間知らずの教師などなめてかかっても怖くないかもしれない。

 

教師が説得力を持ってこれから社会に出て行く生徒を指導するためにも、教師も学校の外の世界をもっと知る必要があるのではないか。長い夏休みの期間を利用して、教師もファストフードでアルバイトをしてみたらよい。

2009年11月22日 (日)

マーラー「交響曲第8番」アルミンク指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団

Arming 20091118日、新日本フィルの第455回定期演奏会でマーラー「交響曲第8番」を聴いた。マーラーは高校生時代から好きな作曲家だが、演奏機会の少ない8番は生演奏を聴いたことがなかった。去年の4月に東京都交響楽団がインバルの指揮で演奏したときも聴きたかったが、チケットがすぐに完売したため買えなかった。今回は万全を期して発売時刻すぐに申し込みをしたら取れた。

 

アルミンクの指揮は、奇をてらったところはなく、曲本来の力を自然に出そうとしていたように感じられた。ただし、若手にも関わらず、作為的な表現を排除しようとしたのかテンポはやや遅めで、盛り上げるところではもう少しテンポを上げるなどしてメリハリをつけてほしかった。そのため、第2部の中ほどのダレやすいところはやはりダレた。オケは、座席にもよるだろうが、トランペットの音量が小さく、楽器間のバランスが悪かった。

 

特筆すべきは合唱(武蔵野音大、栗友会)だった。“宇宙が鳴り響く”というこの曲らしく、ホールを力強い歌声で満たした。もちろん声量だけでなく、表現も伴っていた。欲を言えばドイツ語の発音(特にウムラウト付の母音)がもっと自然ならよかったが、日本人だけで編成されている大規模な合唱団では望むらくもないだろう(BCJみたいな少数精鋭なら別だが)。

 

ソリストも概ね良かったが、特に宮平真希子(ソプラノ)は声量・表現とも良かった。児童合唱は上手に歌っていたようだが、声量が不足しており、存在感をあまり感じることができなかった。

 

実演を聞いて、バンダ(トランペット、トロンボーン。8人)がいたことを初めて知った。ほんの数小節が2回だけで、マーラーはずいぶん贅沢な人の使い方をしたものだ。近くの席だったので、バンダの出入りで気が散った。2階席で歌った「栄光の聖母」(ソプラノ)も出番はわずかで、本当にもったいない気がした。

 

 

新日本フィルハーモニー交響楽団サントリーホール・シリーズ第455回定期演奏会

マーラー作曲・交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』

指揮:クリスティアン・アルミンク

ソプラノ:マヌエラ・ウール、宮平真希子、安井陽子

アルト:アレクサンドラ・ペーターザマー、清水華澄

テノール:ジョン・ヴィラーズ

バリトン:ユルゲン・リン

バス:ロベルト・ホルツァー 

合唱:栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団

合唱指揮:栗山文昭

児童合唱:東京少年少女合唱隊

児童合唱指揮:長谷川久恵

2009年11月21日 (土)

蓮舫に権力を持たせるな

Renho 「事業仕分け」における、権力をかさに着た蓮舫の横柄な態度はテレビで何度も放映されたので、見た人は多いだろう。

 

もともと民主党の熱烈な支持者であるか、蓮舫のファンである人は、「悪い役人をばっさり切る痛快な態度」と感じたかもしれないが、それは極端にバイアスがかかった見方なので反省したほうがよい。

 

サラリーマンでもたまにああいう態度をとる人がいる。権力を持っていなかったときは普通の人だったのが、役職がついたとたんに横暴になる。こういう人は、権力の使い方がわからない人、権力を使う能力を欠いた人なのだ。こういう人についた部下はたいていメンタルヘルスを害してうつ病になってしまう。

 

本来、組織(政府もその一種だ)の中での権力は、組織としての目的を達成するために、役職についた個人に仮託されるものだ。ところが、この手の能力を欠いた人たちは、あたかも自分に全権が付与されたかのように勘違いして、個人的な欲望を満足させるために権力を濫用するのである。事業仕分けでの蓮舫もまさに権力欲が満たされたことに酔っている人間の態度を示していた。

 

組織の目的を達するためならばおのずと権力を行使する範囲や方向性に予測がつくが、個人の欲望を満たすためとなるとその時々の気分で変わるので予測が不可能になる。予測できない権力に服従させられる人はたまったものではない。しかも、全権があると思い込んだ人間は、部下の人格を否定するような言動をとることも多い。こうなると部下はうつ病にまっしぐらだ。

 

ああいう人に権力を持たせてはいけない。部下になる人の安全のためだけではなく、権力の濫用から日本国民を守るためにも。

2009年11月20日 (金)

賃貸住宅の更新料は払わなくて良い

賃貸住宅の更新料が無効であるとの判決がいくつか出ている。遅きに失したとは思うが、この判決を高く評価する。

 

判決理由として、何の対価なのかが不明とされている。まことにもっともだ。

 

借家人は、家賃によって借家の利用価値に対する対価は全額支払っているのである。賃貸借契約の更新によって、それを超える便益は借家人には生じない。それなのに、家賃1か月分とかに相当する金額を更新料として家主が請求するのは、引越しという借家人にとってのスイッチングコストに乗じて不当な利得を得ようとするものだ。

 

人口が増加し、地方から都市に多数の若者が移住した時代には、賃貸住宅は貸し手市場だった。そのため、礼金とか更新料のような、まったく筋の通らない不当な名目の金でも、家主から請求されれば、立場の弱い借家人は払わざるを得なかったのだ。そうしなければ住む場所が確保できないのだからしかたがない。

 

本当は、このような不当な請求をする家主が圧倒的多数だった時代にこそ無効判決が出るべきだった。最近は賃貸住宅の需給バランスがくずれ、空き家が増えている。これに伴って、礼金や更新料を請求しない家主も増えているのである。

2009年11月17日 (火)

不況の色

先日、駅前でファミレスの店長らしき男性が割引券を配っていた。いかにも不慣れな所作からは、不況の影響で客足が遠のいているらしいことが伺われた。

 

不慣れな所作とは、姿勢が硬直していたし、紙を差し出して声をかけるタイミングが遅れ気味だったのだ。街頭配布をやった経験は結構あるので、このあたりの技術にはひとことあるのだ。

 

それ以外にも、妻が仕事で行った飲食店でチェーンの割引券を何枚ももらってきていた。それも20%引きといった高率の割引だ。いまどき利益率が4割、5割もあるような商売はまずない。20%の割引はかなり収益性を犠牲にしているはずだ。そこまで切羽詰っていることを示している。

 

外食は節約のターゲットになりやすいので、景気の影響が端的に表れているということはあるだろう。しかし、まだまだ景気の先行きは見えないようだ。

2009年11月 8日 (日)

生成文法への素朴な疑問

今日の言語学界では、米国のノーム・チョムスキーが開拓した生成文法(Generative Grammar)と呼ばれる学派が主流となっているようだ。

 

チョムスキーは、言語学を自然科学の一分野に位置づけることに情熱を燃やしてきた。彼によれば、言語学は、人文学ではなく、生物学の一分野である心理学・神経科学のさらに一分野になるべき学問であるという。言語学を自然科学にするためにチョムスキーは、言語現象を言葉で記述するのではなく、理論モデルや数式で表現する方法を開拓した。

 

自然科学を目指すという志は理解できなくはない。そのために言語の構造を関数で標記するのもいいだろう。しかし、実際の生成文法は、英文法の瑣末な議論ばかりしていて、人間が持つ普遍的な言語能力の科学的な解明が進んでいるとは思えない。

 

例えば、英語の平叙文では目的語は動詞の後に来る(例、I have a book.)のが、wh-疑問文(what, who, why, where, howで始まる疑問文。例、What do you have?)だと目的語に相当する疑問詞が文頭に移動するのはなぜかという議論をやっている。

 

このような現象はどの言語でも見られるわけではない。実際、日本語にはない(例、私は本を持っている。→あなたは何を持っていますか。で目的語と動詞との関係は不変。)。

 

それなのに、このwh-の移動のメカニズムを解明することが人間の言語能力の根本的の解明につながるという前提で研究がされている。驚くべき英語中心主義だ。これ以外にも英語だけを基にして極めて詳細で緻密な仮説を大量生産しているが、検証の方はまったくおろそかにされている。

 

そんな議論は英語が母語である人間だけで勝手にやっていれば良い。

 

ところが、日本人の生成文法学者までが一緒になってこんなことをやっている。英語だけの分析に基づいて作ったモデルを、たまたま自分の母語である日本語にだけあてはめてみても、モデルの妥当性の検証にはならない。いまだに輸入学問をやっているのは困ったものだ。

 

普遍的な理論の構築を目指すのであれば、いきなり英語という特定言語の各論に入るのではなく、まず多数の言語を調べて共通の性質を抽出し、それをモデル化するというアプローチを取るべきだ。それが自然科学的なアプローチではないか。実際、言語類型論(Typology)と呼ばれる言語学の分野では、このような方法論がとられている。

 

生成文法に代表される理論言語学に対比されるのは記述言語学である。記述言語学はフィールドワークなど大変な労力を要する学問なので、研究費もかからず机上で紙と鉛筆だけできる生成文法の研究に惹かれる学者が多いのはわかるような気はする。

 

生成文法がはじまって50年経った。生成文法は、きちんとした科学的な仮説検証を積み上げて、成果を出していかないと流行として終わるだろう。

2009年11月 1日 (日)

太陽光発電世界一位を目指すべきなのか?

Pv 今日から、住宅用太陽光発電の余剰電力の買取価格が大幅にアップした。

 

日本は太陽光発電設備の設置量で長らく世界のトップだったが、2005年にドイツが高値での全量買取制度を実施してほどなく追い抜いた。マスコミの論調をみていると、今回実施された買取価格のアップを正当化する理由として、ドイツからの“世界一位奪還”が疑いなく受け入れられているようだ。

 

もちろん、一般論として再生可能エネルギー推進は、資源制約や地球温暖化を考えれば良いことだ。しかし、太陽光発電は発電電力量当たりに必要な土地の面積が大きい。

 

今はなんだかんだ言っても普及率が低いので、ドイツと日本が世界一を競っているが、ロシア、アメリカ、中国、ブラジルさらにはアフリカ諸国など日本とは比べ物にならない広い国土を持つ国が本格的に太陽光の普及を図れば小国が到底太刀打ちできるものではない。

 

したがって、仮に日本ががんばっても“世界一”の座を守れるのは当面の数年から十年くらいの間だけだ。だから、そのような無意味なことを競うのは子どもじみているのでやめたらどうか。

 

日当たりの良くないところに無理に太陽光発電設備を設置しても逆に資源の浪費になる。

 

むしろ、太陽光発電設置可能面積や日照時間などから、合理的に目標値を設定し、目標に対する達成率を管理していくのが大人のやり方だろう。経済産業大臣や環境大臣はもう少し頭を使え。

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