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言語・外国語・英語

2010年11月15日 (月)

「言語のレシピ」マーク・C・ベイカー(郡司隆男訳)

4000227300

今までに何冊も生成文法の本を読んだが、いずれも前提を十分検討せずにいきなり英文法のモデル化作業をマニアックに進めるものばかりで、そうした作業が本当に生成文法(普遍文法)の存在証明につながるのかまったく不明なものばかりだった。本来、生成文法は言語学を科学にすることを標榜していたはずだが、実際にやっていることは実証を怠って教祖(チョムスキー)の教えを忠実になぞろうとする宗教そのものであり、生成文法の学者とはキモい連中だと思わずにはいられなかった。

しかし、本書を読んでようやくまともな生成文法(普遍文法)学派の学者に出会えた。かねてから生成文法の存在を証明するためには、類型論のアプローチが不可欠だと考えていたが、ベイカーはまさにこれを実践している。盲目的に英文法の精緻なモデル作成に没頭するのではなく、まず類型論に基づく言語間の比較を行って、世界のさまざまな言語の大きな特徴の差異を把握し、そのうえで順次パラメータを設定していくのだ。

ベイカーは、モホーク語が話される地域に住居を構えて実地調査を行った経験がある。そうした生の言語を対象とする研究を行った学者だからこそ、英語中心主義の陥穽に陥ることなく、バランス感覚を持って真に「普遍」を探求するアプローチができたのだろう。

著者は第7章で言語の多様性がもたらす豊かさを強調している。この多様性を尊重する立場は本書に通低するものでもあり、ベイカーは生成文法の仮説を絶対視することなく、あくまでも説明力がある範囲において採用している。生成文法を絶対視しないどころか、注意深く本書を読むと、認知言語学のアプローチを許容するととれる記述もある。ドグマにとらわれることなく、真理に対する謙虚な態度を持ち続けている。

生成文法を絶対視して崇め奉り、英語母語話者でないにもかかわらずつたない英語力を頼りに内省で英語のモデル作成に没頭している自称言語学者たちはベイカーの爪の垢を煎じて飲むべきだ。それにしても、実証をしようともせずに科学だと思い込んでいる生成文法学者たちは頭が悪すぎる。やはり言語学なんて食えない学問をやる時点で頭の悪い連中が多いのだろうか。



「言語のレシピ」マーク・C・ベイカー(郡司隆男訳)

岩波書店

ISBN: 4000227300

2010年7月 4日 (日)

「英語の歴史」寺澤盾

Eigo

英語の歴史を現代の視点からコンパクトにまとめた新書。最初に英語の現状を概観したうえで、ブリテン島に諸民族が移住した経緯から21世紀までの歴史をわかりやすく語っている。英語に興味のある日本語母語話者にとって、本書に書かれている知識は英語を学び、使ううえでも若干の助けになるだろう。

 

学者らしい謹厳実直で淡々とした文体。テクニカルタームも出てくるので、内容そのものに興味がなければ、ページを先へ先へとめくらせる力は弱いかもしれない。

 

巻末に文献案内があるので、大学生にも役に立つだろう。

 

中公新書 1971

中央公論新社

2009年12月 5日 (土)

翻訳についての誤解を解く

翻訳家の山岡洋一氏が発行するニューズレター「翻訳通信」がウェブで公開されていることを最近発見した(こちら)。

 

山岡氏は、経済学の開祖アダム・スミスの『国富論』の新訳を2007年に出した。著名な経済学者による訳本が多数あるのになぜいまさら『国富論』の新訳を手がけたのか、その理由が語られている。

 

一言で言うと、岩波文庫や中公文庫で出ている経済学者の翻訳が日本語になっていないからだ。英単語と日本語の単語を一対一でむりやり結びつけて訳すという、学校英語の英文和訳のやり方そのままでは、表面的には英語が日本語に訳されていても、日本語だけ読んでも意味がわからない。

 

山岡氏は、プロの翻訳家であるが、『国富論』の新訳は出版社からの発注なしに作業に取り掛かったという。なぜなら、山岡氏が新訳を思い立った十数年前は、社会科学の古典をその分野の大学教授でもない翻訳家が訳すという例が出版界になかったからだ。しかし、学者には任せておけないというやむにやまれぬ熱意が山岡氏を突き動かし、収入にはならないかもしれない作業を始めたのだ。

 

せっかく多数の人に読み継がれる価値のある古典が、下手な翻訳のせいで読まれないままになっているのはあまりにももったいなく、翻訳家として放置できないという強い使命感が感じられる。

 

学校教師の便宜のために、使い物にならない“英文和訳”を仕込まれるうちに、それが絶対的に正しいという観念が蔓延してしまったことへの強い憤りが伝わってくる。確かに、学校の試験のためには、oftenは「しばしば」、principleは「原理」と、英単語と和訳とが一対一に対応していると便利だろう。しかし、ある言語で伝えたいメッセージを他の言語に移す翻訳という作業は、そのような機械的なものではない。“英文和訳”を刷り込まれるために、大多数の日本人は「翻訳」ができなくなってしまっているのだ。

 

学校英語の問題を始め、出版不況の問題など、翻訳家としての問題意識がひしひしと伝わってくるニューズレターだ。なかなか日の当たることの少ない翻訳家だが、プロとしての誇りが感じられる。

2009年11月 8日 (日)

生成文法への素朴な疑問

今日の言語学界では、米国のノーム・チョムスキーが開拓した生成文法(Generative Grammar)と呼ばれる学派が主流となっているようだ。

 

チョムスキーは、言語学を自然科学の一分野に位置づけることに情熱を燃やしてきた。彼によれば、言語学は、人文学ではなく、生物学の一分野である心理学・神経科学のさらに一分野になるべき学問であるという。言語学を自然科学にするためにチョムスキーは、言語現象を言葉で記述するのではなく、理論モデルや数式で表現する方法を開拓した。

 

自然科学を目指すという志は理解できなくはない。そのために言語の構造を関数で標記するのもいいだろう。しかし、実際の生成文法は、英文法の瑣末な議論ばかりしていて、人間が持つ普遍的な言語能力の科学的な解明が進んでいるとは思えない。

 

例えば、英語の平叙文では目的語は動詞の後に来る(例、I have a book.)のが、wh-疑問文(what, who, why, where, howで始まる疑問文。例、What do you have?)だと目的語に相当する疑問詞が文頭に移動するのはなぜかという議論をやっている。

 

このような現象はどの言語でも見られるわけではない。実際、日本語にはない(例、私は本を持っている。→あなたは何を持っていますか。で目的語と動詞との関係は不変。)。

 

それなのに、このwh-の移動のメカニズムを解明することが人間の言語能力の根本的の解明につながるという前提で研究がされている。驚くべき英語中心主義だ。これ以外にも英語だけを基にして極めて詳細で緻密な仮説を大量生産しているが、検証の方はまったくおろそかにされている。

 

そんな議論は英語が母語である人間だけで勝手にやっていれば良い。

 

ところが、日本人の生成文法学者までが一緒になってこんなことをやっている。英語だけの分析に基づいて作ったモデルを、たまたま自分の母語である日本語にだけあてはめてみても、モデルの妥当性の検証にはならない。いまだに輸入学問をやっているのは困ったものだ。

 

普遍的な理論の構築を目指すのであれば、いきなり英語という特定言語の各論に入るのではなく、まず多数の言語を調べて共通の性質を抽出し、それをモデル化するというアプローチを取るべきだ。それが自然科学的なアプローチではないか。実際、言語類型論(Typology)と呼ばれる言語学の分野では、このような方法論がとられている。

 

生成文法に代表される理論言語学に対比されるのは記述言語学である。記述言語学はフィールドワークなど大変な労力を要する学問なので、研究費もかからず机上で紙と鉛筆だけできる生成文法の研究に惹かれる学者が多いのはわかるような気はする。

 

生成文法がはじまって50年経った。生成文法は、きちんとした科学的な仮説検証を積み上げて、成果を出していかないと流行として終わるだろう。

2009年6月 7日 (日)

「言語の限界」ミケル・パルクヴァル

Parkvall 言語学のトリビア集といった趣の本だが、情報量の膨大さに驚く。目次をざっと見ると、社会言語学、歴史言語学、手話、言語習得、動物と言語、人工言語、法言語学、一般人が持つイメージ、語彙、発音、言語の構造、言語学者と、言語学の概説書で通常扱わないテーマも含めた広い範囲をカバーしている。

 

そして、一つ一つのテーマについて、学術的な知識から雑学的な知識まで、きちんとした出典に基づいたデータを示している。

 

例えば、もっとも言語の数の多い国のランキング上位5か国は次のとおり。

 

パプアニューニギニア 823

インドネシア 726

ナイジェリア 505

インド 387

メキシコ 288

 

1つの国の中にこんなにも多数の言語があるとは、方言こそ多様だが一応誰もが日本語を話す国にいると想像もできない。

 

日本語も「最も複雑な表記法」として登場している。文字の種類に漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットがあり、縦書き・横書きがある。さらに、漢字には音読みと訓読みがあるうえに、音読みだけでも複数ある漢字もある。アルファベットだけで事足りるヨーロッパ人からすると想像を絶する複雑さと映るようだ。

 

トリビアらしい話としては、Webster’s New International Dictionary(1934)に収録された幻の英単語「dord」がある。意味は、「(物理学・化学用語)密度」と載っている。ところが、これは勘違いでこうなってしまったのである。原稿には「D or d」(Dまたはd)と書いてあったのに、組版工が1語と間違えて「dord」としてしまったのだ。つまり、densityが略してDまたはdと書かれる場合があるという意味だったのだ。

 

苗字の種類の多い国、少ない国のランキングなんてのもある。上位10種類の苗字で国民の何%がカバーされるかのトップ10は次のとおり。

 

ドイツ 40.90%

デンマーク 33.22%

レユニオン 26.03%

スペイン 19.65%

スウェーデン 19.50%

ハンガリー 16.86%

ノルウェー 8.64%

ケベック 6.51%

英国 5.70%

アメリカ 5.62%

 

日本はランキングに出ていない。世界の中でも苗字の種類が多くてばらついている部類に入るようだ。

 

とにかく盛りだくさんな本なので、バランスよく概要を説明することができない。言語学に興味のある方は読んで損はない。

 

著者はストックホルム大学の言語学者。スウェーデン人の名前はなじみがないので、カタカナ標記は間違っているかもしれない。

 

Limits of Language

Mikael Parkvall

Battlebridge Publications

ISBN: 978-1-903292-04-4

2009年4月30日 (木)

絶滅の危機に瀕した言語

世界には絶滅の危機に瀕している言語が多数ある。その言葉を話す人の数が数人とか一人とかになってしまったり、数十人いても全員がお年寄りだとか。

 

「絶滅の危機に瀕している」と言われれば、反射的に「保存・保護しなくちゃ」「何とか存続させられないものだろうか」と考えてしまいがちだ。しかし、本当にそうするべきなのだろうか。

 

場合に分けて考える必要があるだろう。他言語の話者が権力を握っていて、権力によってその言語を弾圧している結果、絶滅の危機に瀕しているといった場合には、「保護しなくちゃ」というのは正しい反応である。

 

他方、別に誰も強制はしていないのに、その言語の話者たちが自由意志でもって子供たちは他の言語を話すように仕向けているといった場合はちょっと違うのではないか。そのような場合にまで、その言語共同体に属しない人間が「何とか存続させられないものだろうか」と介入するとしたらただのおせっかいだ。

 

もちろん、人間の文化の形態の記録としてそうした言語の記述が残ることは望ましい。ある言語が滅びることによって、その言語で伝承されていた文芸・話芸・歌なども失われてしまうのは事実だ。相互理解の促進を取るか、伝承の価値を取るかの厳しい選択を迫られる場合もあるだろう。しかし、当の話者たちが存続を切望していないとしたら、保存運動はいらぬお世話だろう。

 

バベルの塔の神話が端的に示すように、人類は多数の異なった言語を話すが故に相互理解が妨げられている面がある。言語の種類が減ればそれだけ相互理解が進む可能性がある。子供には他言語を身につけさせて、他地域・外国の人達との意思疎通ができるようにしてやりたいという親心は正しいように思われる。

2009年4月22日 (水)

「世界言語地図」町田健

Sekaigengotizu テレビ出演や多数の著書で有名な町田先生が世界の主要言語46を一般向けの読み物として概説したもの。『フォーサイト』の連載だったため、それぞれの言語をめぐる政治的な状況に言及しているところが特徴である。

 

以前紹介した「世界の言語入門」黒田龍之助とは、新書で多数の言語について語るというコンセプトは一脈通じるところがある。しかし、黒田は自分が知らない言語についても主観的な印象をつづることに徹底しているのに対し、本書は各言語の客観的なデータ(話者人口や話されている地域、公用語など)を押さえているところが対照的である。

 

なお、書名になっており、各項に挿入されている「地図」は本書のオリジナルではない(引用である)。世界の言語がどこで使われているかを示す地図を作成する努力は大変なもので、新書本一冊書くためだけにオリジナルな研究ができるわけもないので、当然といえば当然かもしれない。

 

前半の各項の結びが、「我が国との関係も今後深まっていくのではないだろうか。」(チェコ語・スロバキア語)といった調子の、あまり根拠のない社交辞令のような一文になっていたのは興ざめだった。

 

とはいえ、主要言語の状況について読みやすくまとめてあり、このテーマに関心のある読者なら楽しんで読むことができるだろう。

2009年3月20日 (金)

「外国語学習の科学」白井恭弘

03035178 外国語(第二言語)の習得に関するこれまでの学問的な知見を一般向けにコンパクトにまとめた概説書である。

 

これを読むと、日本の学校での英語教育が、少なくともコミュニケーションの道具として英語を身に付けさせるかという観点からは、いかに理論的な裏づけを欠いた方法を惰性でやってきたかを痛感させられた。

 

例えば、単語カードというものがある。小さな短冊形の紙片の片面に英単語を1つ、もう片面に対応する和訳を書いて、これを繰り返し見ることで単語を暗記する道具だ。しかし、用例や文脈から切り離された単語を、英語と日本語とがあたかも1対1対応するかのように記憶しても、英語を実際に書いたり話したりするときにはあまり役に立たない。

 

著者も巻末で述べているように、第二言語習得の理論は発展途上にあり、すべてが明らかになっているわけではない。しかし、部分的にではあっても、研究の成果を外国語教育の実践に取り入れることは可能だし、そうするべきだろう。それによって、日本人の英語コンプレックスが多少なりとも緩和され、国際化する社会の中で日本人が諸外国人と交流する上での障壁が低くなることが望ましい。

 

本書は、実践の手引きというよりは理論の概観が中心である。最後の章に「効果的な外国語学習法」がまとめてあるが、これだけでは一般の読者が実践に移すことは限界があるだろう。著者は大学での第二言語習得の入門教科書としての利用を前提としているようだが、新書という一般向けの出版形態であることから、どうしても読者は具体的な学習実践方法を期待してしまう。手軽に買える形で第二言語習得の入門書が出版されたことは大歓迎だが、欲を言えばもう20~30ページ増やしてでも具体例を盛り込んだほうが読者に対して親切だったのではないか。

 

 

「外国語学習の科学」

白井恭弘

岩波新書(新赤版)1150

ISBN978-4-00-431150-8

2009年2月24日 (火)

「ことばの変化~進歩か乱れか?」ジーン・アイチソン

Langugae_change 著者はオックスフォード大学名誉教授。オックスフォード大学言語学科で入門用のテキストとしても使用されているが、専門的知識を前提としていないので、言語に関心のある一般人にも読みやすい(ただし和訳は出ていない)。

 

本書は、ことばが変化した実例をいくつか詳しくみたうえで、どうしてそういう変化が起きるのかを説明している。言語の変化には社会的な要因が大きいことを指摘している。例えば、上流階層が使うとされる言い方をより下層の人たちがまねしたり、逆に行儀が良くないとされる言い方をわざとまねしたりすることによって、言葉の変化が広がっていく。その他にも、音韻が順送り式にずれていく有名な現象ももちろん解説されている。

 

本書のタイトルになっている問いに対する答えは、言語学の世界では、「進歩でも乱れでもない。」ということになっている。言葉は常に変化するものなので、ある時代や地域の言葉を基準にして「正しい」とか「美しい」といった価値判断するのは学問的な態度ではない。

 

ことばの変化は、長期間かかって起きる現象であり、実験で確かめることはできない。そのためもあり、統一的に説明する理論はない。本書でもなぜ言語変化が起きるのかについては、いくつかの現象を説明するのにとどめている。

 

このように一般人に読みやすいスタイルで学問的な裏づけのある概説書が書かれていることを歓迎する。ことばは変化することも本質の一つであると思われるので、今後もこの分野の研究が進むことを期待する。

 

Language Change: Progress or Decay?

Jean Aitchison

Cambridge University Press

ISBN-10: 0521795354

2009年2月 9日 (月)

「世界の言語入門」黒田龍之助

03035200 新書見開き2ページで1言語、合計90言語についてのエッセイ集である。もちろん2ページではいかなる言語についても包括的なことを述べることはできないし、著者もこれほど多数の言語が話せるわけではないので、著者がその言語について思うこと、知るところを自由につづったものだ。

 

90言語を通じて一貫しているのは、あらゆる言語について無差別であることと、未知の言語への好奇心だ。

 

言語学者ならば、言語に優劣がないことは知っている。しかし、現実には英語など政治・経済・文化において優勢な国の言語が研究対象となることが多い。有名なチョムスキーのユニバーサル・グラマー(普遍文法)理論は、その名称とはうらはらに英語を前提として組み立てられた理論だったりする(他の言語での検証も進められてはいるが)。

 

著者は、スラブ語という日本ではマイナーな言語を専門にしているため、日陰者のつらさを身をもって経験していると思われる。そのためか、優勢な言語に肩入れして勝ち馬に乗ることもなく、かといって劣勢な言語を無理に引き立てることもなく、あらゆる言語に淡々と、しかし、好奇心を持って接していることが持ち味だ。

 

新書という出版形態では、テーマを一つに絞って一般の読者向けにわかりやすく解説するものが多い。本書は極めて短いエッセイの集まりであり、新書としてはかなり珍しい。

 

外国語といえば英語とか、役に立つ外国語として中国語を学ぶとか、ともすれば私たちは先入観や世俗的な色眼鏡をもって外国語と接してしまいがちになる。世界中にいろんな言葉を使って生活している人たちがいることをたまには考えてみるのもよい。